剣の切っ先で宙を横に薙ぐ。
 そして今度は上から振り下ろすべく、振り切った姿勢はそのままで薙いだ剣を――

「いや、これ無理だ! 重すぎる! この剣、重すぎる!」

 大声でわめき、鉄製の長剣を床にゴトンと置く。……ゴトンって。一体何キロあるんだよ、この剣。
 アイリスが「ん〜」と小さく苦笑する。

「コウタなら、もしかしたらやれるかもって思ったんだけどねぇ……」

 俺の身体のどこをどう見てそう思ったのだろう。

「切れ味は鈍いですけど、護身用にするならちょうどいいものなんですけどねぇ……。安価でもありますし」

 おい、ラティア。お前は仮にも王女だろう。その王女が値段で武器を選ぶなよ。

「とにかく、もっと軽いものにしよう! そりゃ俺だって、どうせなら長剣を使いたいって思ってはいたよ? でも、この剣だと持ち運びだけで体力を使い果たしちゃうよ!」

 幸い二人は「そうね」「そうですね」とあっさりうなずいてくれた。こういうとき、ひねくれていない人間というのは非常にありがたい。うちの姉貴だったら間違いなく……いや、これ以上考えるのはやめておこう。あとが怖い。
 だって、あの姉貴のことだ、俺の考えていたことなんて、異世界にいたって万にひとつくらいの確率でバレてしまう。そして元の世界に帰ったときに『あのときは〜』とか怒られるに違いない。そう、いくらここが異世界で、俺の心の中の呟きであっても、だ。というか、こんな思考をあの姉貴の横でしようものなら、ほぼ確実に見抜かれる。そういう類の人間なのだ、あの姉は。

 さて、そんなわけで思考の方向を、姉貴にバレないうちに転換する。
 俺とラティア、アイリスの三人は城下町へとやってきていた。正確には、城下町にある武器屋に。いうまでもなく俺の装備を整えるためだ。

「けど、本当に出してもらえるんだな。装備を揃えたり、食料を買い込んだりするための金」

「それはそうよ。ちゃんと陛下に言ってたでしょ? 資金援助お願いねって」

「てっきり逃げ出すための口実かなにかだと思ってたんだよ……」

 ぼやいて、「このあたりの物はオススメですよ」とラティアが言ってくれたコーナーへと入る。
 壁や棚には、主に小剣が飾られていた。ただ、どれも装飾が凝っていたり、魔力が付与されていたりでなかなかに値が張る。

「小さい剣のほうが安そうなもんだけどなぁ……」

「いえいえ、材料費だけで考えたらそうかもしれませんけど、実際は小剣のほうが手が込んでいて、高価なんですよ。例えば、これ!」

 自分が使っているのが小剣だからなのだろう、ラティアは小剣に一家言あるようだった。出会ったときから腰に差していた小剣を鞘ごと取り外す。

「私のこれなんて、女の細腕でも軽々持てるように《重量軽減》の魔法がかかっているんですよ! 値段もさっきの長剣数十本分です!」

「一番金かかってるのは、その無駄に施されてる装飾のような気がするが?」

「ああ、この装飾も当然、お金かかってますよ。でも魔力付与に比べれば微々たるものです」

 どうやら《重量軽減》の魔法の付与というのは、かなりの高等技術らしい。ん? 待てよ、だったら……。

「なあ、長剣にも《重量軽減》のかかったものがあるんじゃないのか?」

「ええ、ありますよ。まあ、私は使おうと思いませんけどね。小剣の間合いに慣れてますから、長剣はかえって扱いにくいでしょうし。――あ、コウタさんが使うようなものでもありませんよ。あれは護身用に持ち歩くには高価すぎます」

「高いとか安いとかにこだわりすぎだって、お前! それでも王女か!」

「いくら兄様が資金援助してくださるとはいっても、無駄遣いをしていい理由にはなりません! それに民の見本となるべき王族であればこそ、贅沢は慎まなければ!」

「うっ、一理ある……」

 そうだよな。確かに俺が性能のいい、高価な剣を持っても、モンスターを斬るとかできそうにないし。多分に精神的な問題で。
 というか、そもそもモンスターはあまり出ないんだよな、この世界。仮に出たとしても、次期国王に剣の腕前を認められているラティアと、魔法と《魔眼》の使い手であるアイリスが蹴散らしてくれるんだろうし。
 ……あれ? もしかして俺、このパーティーの中で一番弱い? ……いやいや、そんなことはないはずだ! ほら、俺だってアイリスと同じ《炎熱の魔眼》を使えるわけだし!
 あ、でもそうなると、やっぱり俺には性能のいい剣って必要ないのか……?

 ――と、このパーティーにおける俺の存在意義だったり、自身の戦闘能力の無さだったりに悶々としている俺の視界に一人の少女の姿が映った。そういえば、さっき『キィ……』という店の扉が開く音がしていたような……?

 年の頃は十代の半ばくらいだろうか。
 右に左に、遠くに近くにと、めまぐるしいほどによく動く大きな黒い瞳と、活発そうな黒のショートカットが印象的な、旅人風の服を身にまとった少女だった。ただ、ときどき瞳に『弱々しさ』のようなものが見え隠れし、どこか『活発』を演じているようにも感じられる。
 彼女は俺を見てなぜか目を瞠(みは)っていたが、やがて俺たちと背中合わせになるあたりの位置に陣取り、小剣よりも更に小型の剣――ダガーの物色を始めた。そこで俺も少女の観察をやめ、小剣の置いてある棚に視線を戻す。女性を長い時間ジロジロと見ていると、逆にこちらのほうが気まずくなる。それはアイリスと初めて会ったときに学習済みだった。

 うなりながら、『なるべく安いものを』という基準で棚の端から順番に小剣を見ていく。見事な装飾が施されたもの、どういう魔法がかけられているのか、刀身が蒼白く輝いているもの、なんの変哲もない小剣なのに、どういう理由でかべらぼうに高い値がつけられているもの、などなど。
 ふと思い、視線を走らせながらアイリスに話しかける。

「そういえばさ、俺がこうやって剣を見たりするのも、世界を救うことに繋がるのか?」

「ええ。とはいっても微々たるものだけどね」

 そりゃそうか。俺にとっては見るものすべてが新鮮とはいっても、この街だけでは一週間もすれば飽きがくる。そうなったら俺は『左目』としての役割を果たせなくなってしまうのだ。そうならないようにするためには……、やっぱり、そこそこ遠出をする必要があるのだろう。

「本当は、この国のみじゃなく、未開の地――大陸の最北端に行ってみたりなんかすると、効率がいいんだけどね。あとは九死に一生を得る、みたいな体験をするとか」

 とんでもないことをサラッと言ってくれる。でも九死に一生を云々は置いておくとして、『あれ』とやらに到達するためには、未開の地くらいには行かなきゃ駄目なんだろうか?

 危険な目には遭いたくないんだけどなぁ、と人間としてごく自然な思考をする俺の目に、一振りの小剣が目に留まった。他の小剣と比べてみると値段はそこそこ。重さはどんなものだろう、と手にしてみる。
 おお、なかなかいい感じじゃないか。ずっしりとはしているけど、腰にくるほどじゃないし。

 鞘に収めて腰に提げてみたり、再度抜いて上段に構えてみたりしていると、アイリスが背後の少女にチラリと目をやってから、「ところで」と問いを投げかけてきた。

「まずはどこに向かう? 今日は城に泊まるからそのときに話せばいいとも思うけど、当面の目的地くらいは決めておいたほうがいいんじゃない?」

「それなんだけど」

 先ほど長剣でやったように、小剣を横に薙ぎながら答える。今度はよろけることもなく、振りぬいた姿勢のままで止めることに成功した。ちょっと感動。

「俺さ、この世界に一番最初にやってきた人間――魔王に会ってみたい。俺と同じ世界から来た人間に」

 小首を傾げてみせるアイリス。胸許にある、紅い宝石がはめ込まれているペンダントが合わせて揺れる。

「ヒカル――いえ、ソウシに?」

「ヒカル? ソウシ? 魔王の名前か? えっと、それでどっちが魔王の名前?」

「いえ、ヒカルとソウシは同一人物よ。魔王になったときにヒカル――菅原 光(かんばら ひかる)は菅原 奏詩(かんばら そうし)と名を変えたの。……まあ、私はいまでも一緒に旅をしていた頃みたいに、ときどき『ヒカル』って呼んじゃうんだけど」

 名前を変えるなんて、なんでそんな面倒なことを。思いながら今度は小剣を振り下ろしてみる。風切り音が耳に心地いい。

「名前――ファーストネームを変えた理由は、元の世界にいた者との繋がりを断ちたかったんじゃないかしら。人間にとっての『ファーストネーム』は、親から初めて与えられる大切なものだから。――まあ、これは私の勝手な憶測だけど」

 それほどまでに親との絆を断ち切りたかった、ということか。あるいは帰らないと決めたからこそ、元の世界への未練を断ち切りたかったのかもしれない。しかし、だ。

「だったら、なんで苗字は菅原のままなんだ?」

 そこが微妙に腑に落ちない。親との絆にせよ元いた世界への未練にせよ、断ち切ろうというのなら苗字をそのままにはしないだろう。

「ミョウジ? ……ああ、ファミリーネームのことね」

 考えるときの癖なのか、人差し指を口許に持っていくアイリス。

「……人間の心は矛盾に満ちているというわ。もちろん、精霊である私も同じだけどね。――これも私の想像だけれど、ソウシもすべてを断ち切ることはできなかったんだと思う。なんらかの形で元の世界の人たちとの繋がりを残しておくことを望んだんでしょうね」

「そうですかね?」

 ラティアが横から口を挟んできた。

「ただ単純に、魔王がヒカルと名乗るのはどうか、と思っただけかもしれませんよ?」

 その可能性もないとはいえない。真実は魔王のみぞ知る、といったところか。

「まあ、そのあたりはどうでもいいよ。とにかく魔王とあって話をしてみたいんだ、俺は。幸い、悪い人じゃないっていうし」

 俺のそのセリフを聞いて、なにを思ったのかアイリスがハッと目を見開いた。

「まさか、ヒカ――じゃなかった、ソウシに会って、『あれ』のことを聞くつもり!? それは駄目よ! 『あれ』には自分で到達しないと意味が――」

 ビクリ、と。
 背後でダガーの物色をしていた黒髪の少女が身体を強張らせる気配が届いた。顔をそちらにやってみると、案の定だ。はた目からもそうとわかる。
 おそるおそるこちらを振り向いた少女は「あ、あはは……」と愛想笑いをして、すぐにダガーの並んでいる棚へと顔を戻す。……一体、なんだっていうんだ?

 少し厳しい表情で少女を見つめているアイリスに、気を取り直して答える。

「違う違う。『あれ』っていうものに到達する方法は聞かないよ。ただ、魔王は『あれ』とやらに到達したのにこの世界に残ってるだろ? その理由を訊きたいんだ。あと、あわよくば元の世界に帰る方法そのものも」

 もし魔王から教えてもらえれば、俺自身が『あれ』とかいうのに到達しなくてもいいわけだし。

「それで、魔王ってどんな感じ? 格好いい? 二十年前に『左目』として世界を救ったっぽいから、いまは三十代?」

「まあ、三十代ね。確か、今年で三十八になるはずよ。もっとも、見た目は十九歳――旅を終えたときのままだけど」

「嘘! どうして!?」

「『不老』の魔法を使える、と思ってもらえればいいわ。彼はこの世界で一番の魔法の使い手だからね」

「『不老』!? つまり、身体の成長を止めて永遠に生きることができるってことか!? つまり、不死!? でも、それだと怪我が治らないんじゃ……。あ、それに新陳代謝もないわけだから、ものを食べたりもできないんじゃ?」

「……えっと、本当に『不老』の魔法を使えるわけじゃないのよ。彼が使っているのは『時空魔法』なの。夜、寝る前に肉体の時間を朝の状態にまで戻すのよ。
 あ、この魔法の便利なところは『肉体にしか作用しない』ところでね。精神はそのままの状態で残るから、夜までに得た記憶――知識や経験はそのまま残るのよ。もちろん、心臓を貫かれたりすれば普通の人間と同じように死んじゃうから不死でもないしね。でも魔法を使えないレベルの致命傷さえ受けなければ、瞬時に『怪我をする前の状態』に肉体を戻せるわけだから、不死に限りなく近いとは言えるかしら」

 便利な魔法もあったものだ。ぶっちゃけ、俺も使えるようになりたい。《炎熱の魔眼》よりもよっぽど役に立ちそうだし。
 表情から考えてることがわかったのだろうか、アイリスがジトッとした目を向けてきていた。

「言っておくけど、不老不死なんて決していいものじゃないのよ。好きな人がいても、一緒に老いていくことさえできないんだから」

 その言葉は俺の心に重く響いた。きっと、老いることのないアイリスの『好きな人』というのが容易に想像できてしまったからだ。見れば、ラティアもどこかしんみりとした表情を浮かべている。アイリスに食ってかかる可能性を考えていただけに、その反応はちょっと意外だった。

 少し重くなってしまった空気を、俺は「それはともかく」と払う。

「魔王のところに行くこと自体には、問題ないんだよな?」

「そうね。魔王の領地はここから遥か西にあるからそこそこの長旅を覚悟しないといけないけど、長旅も途中で町や村を経由するのも『思い出集め』という私たちの目的には合致しているから、むしろ望むところだし」

「じゃあ決定、ですね!」

「ああ!」

 小剣を鞘に収めながらラティアにうなずく。そうして、ふと思ったことをアイリスに尋ねてみた。

「なあ、アイリス。魔王は名前をヒカルからソウシって変えたみたいだけど、もしかして二人目も名前を変えたりしてたのか?」

「え? ええ、そうね。変えてたわ。もっとも、二人目はファーストネームをそのまま残したけど」

 ふむふむ、要するに苗字だけを変えたのか。しかし本当、一体なんのために? 『二人目』の場合はもうこの世にはいないわけだから、魔王のように直接会って訊くということもできないし……。
 アイリスに訊けばいい、とも思うんだけど、彼女、あまり『二人目』のことには触れてほしくないっぽいんだよなぁ……。

 仕方なくそこで会話を終了させ、店主が暇そうに頬づえをついているカウンターへと、小剣を片手に足を向けた。

「あ、その剣にするんですか? 確かに護身用にはちょうどいい感じですね」

 どうやらラティアのお眼鏡には適ったらしい。アイリスが文句をつけてくるとは最初から思っていなかったので、剣はこれで決定だ。

「これを買ったら次はどこに行くんだ? 防具屋? それとも道具屋?」

「防具屋ね。その次は雑貨屋。武器や防具の他にも、色々と揃えておかないと」

「もちろん、保存食もですよ」

 それを聞いてラティアに苦笑いを向ける。

「保存食かぁ。もしかして、硬ぁ〜い干し肉とか? ――あ、すみませ〜ん。これ欲しいんですが〜」

 とりあえず、干し肉とかって美味しいのかなぁ。というか、それ以前にちゃんと日本育ちの俺に噛み切れるのかなぁ……。
 そんなことを考えながら、俺は店主に声をかけたのだった。


○四人目……?

 キィ……、という音をさせて武器屋の扉を開けた。
 中に入ると同時に素早くあたりに視線を彷徨わせる。客の数とお店の人の様子を確かめて、小型の剣――ダガーが置いてあるほうへと足を向けた。
 客は小剣が置いてあるあたりにたった三人いるだけ。ダガーのコーナーに背を向ける形で立っているのがちょっと問題といえば問題かな。

 そこまで考えてわたし――春日 光彩(かすが ひかり)は三人いる客のひとりに思わず目を瞠ってしまった。
 それは無理もないことだと思う。だって、その高校生くらいだと思われる黒髪の少年は、『学校の制服』だとしか思えない服を身につけていたんだから。
 ……っと、いけない。他人に変に注目していると相手の印象に残ってしまうし、お店の人からも怪しまれてしまうかもしれない。わたしは動揺を押し隠して、彼らの背後に移動した。変に思われたのか、うしろからはまだ視線――というか、気配が感じられる。『あの場所』で得た知識によって、そういったものに敏感になっているのだよ、いまのわたしは。

 幸い、彼はすぐに注意を小剣の飾られている棚のほうに戻したようだった。……ほっ、これでわたしも安心してダガーの品定めができる。

 ダガーを順々に見比べながら、ふとちょっと前までのことを回想する。
 わたしは身体が弱かった。それでよく二歳年上の幼なじみ――ミツくんに迷惑をかけていたものだ。
 『弱かった』と過去形で表すことができるのは、いまは人並みに動くことができるから。まあ、別に筋肉や体力がついたり、心肺機能がアップしたわけじゃないんだけど……。

 わたしがこの世界で目覚めたのは五日前のことだ。それまでも『あの場所』で意識を保ってはいたのだけど、ちゃんと『時間(とき)の流れ』に従ってこの身体が活動を再開したのは、五日前から。
 意識を保っていたのだから、『あの場所』からわけもわからないままにポーンと放り出されたというわけじゃない。ただ、いきなり『あの場所』から勢いよく引っ張り出されて、この街――物質界に姿を現すことになっただけで。
 そう、あのわたしを引き寄せた力は、たとえるなら磁石のようなものだっただろうか。S極に引き寄せられたN極みたいな感じ。けど、一体なにがS極――あるいはN極の役割を果たしたのだろう。

 この街で『彼女』と出会い、この世界に生きる者によってわたしが『あの場所』に召喚されてから十年が経っていると教えられた。でもそんなこと、教えてもらうまでもないことだった。だって、わたしは『あの場所』でそのことを知っていたのだから。ただ、わたしには『あの場所』に十年もいたのだという実感がなく、実際に肉体の成長も十四歳で止まっていたというだけで。

 この身体の成長が『時間の流れ』に従わなかったこと、十年もの時間を『長い』と感じていなかったことに、わたしは疑問を抱いてはいなかった。だって、『あの場所』には『時間』という概念が――

「まさか、ヒカ――じゃなかった、ソウシに会って、『あれ』のことを聞くつもり!? それは駄目よ! 『あれ』には自分で到達しないと意味が――」

 ビクリ、と。
 その声に、その言葉に、わたしの身体が硬直する。
 直感的に、わかってしまったから。彼女の口にした『あれ』というのが――『到達』するべき『あれ』というのが、わたしのいた『あの場所』のことを指しているんだと。
 わたしの背中に三人分の視線が集中している。振り返りたくはなかったけれど、おそるおそる背後に首を向けた。驚き、疑問、警戒。三者三様のリアクションを見て、わたしは「あ、あはは……」と愛想笑いを浮かべる。そうしてすぐにダガーが飾られている棚へと視線を戻した。背後からは、まだこちらに向けられている気配がひとつ、感じられる。それは『警戒』の類のもの。どうやら長い金髪をポニーテールにしていた少女のもののようだ。

 ――どうか話しかけられませんように……!

 そうひたすらに念じていると、制服を着た少年に「違う違う」と話を振られ、彼女の意識はわたしから遠ざかっていった。……し、心臓に悪いなぁ、もう。

 それにしても、まさか『あの場所』のことを知っている人がわたしと『彼女』の他にもいるとは思わなかった。『あの場所』の欠点はこういうところだ。知りたいと思っている事柄、得たいと願っている知識はこの上なくわかりやすく伝わってくるのに、そうでない知識はただの意味を成さない単語の羅列としてしか伝わってこない。しかもその単語の羅列は、ときに暴力的な激しさを伴っていたりさえする。

 『あの場所』には『時間』という概念が存在しない。――いや、少し違うかな。『ある』んだけど『ない』。『時間』という概念は『ある』んだけど、この物質界で認識する『時間』と比べると、確固とした意味が存在していない、というべきだろうか。でも『時間』という概念はやっぱり存在していて、ある意味、物質界で認識するそれよりも重要な意味を持ってもいるわけだから……。ああもう、言葉で説明するのが難しい! 『あの場所』にいたときには『そういうもの』として受け入れていられたんだけどなぁ……。

 ちょっと語弊(ごへい)があるかもしれないけど、きっと、『あの場所』は『時間』という概念を超越している空間だった。あるいは、ありとあらゆる時間を共有している空間。
 そう、『あの場所』には過去がなく、現在がなく、未来がなかった。……いや、それも違うか。ないのは過去や現在、未来といったものではなく、それらを隔てている『時間』という名の境界だ。
 そんなわけで『あの場所』には『時間の流れ』というものが存在しない。『あの場所』で起こったことは一瞬のことであると同時に、数百年、数千年のときをかけて起こったことであるともいえるのだ。もちろん、厳密に言えば『時間の流れ』はちゃんと存在しているのだけど、あそこでどのくらいの時間が経ったかというのは、自分の認識のみによって決定されていた。

 ……ふむ、こうして物質界に戻ってきたいまだからこそ思うのだけど、『あの場所』は『縦』・『横』・『高さ』・『時間』から成る、四次元空間だったのではなかろうか。某ネコ型ロボットの持っているポケットの中みたいな感じ。

 ともあれ、わたしはそんな『あの場所』で、ただひたすらに知識を求めた。この身体のままでも人並みに生きていけるための知識を。この身体を治すための知識を求めることはしなかった。それは、なんとなく過去の自分を――ミツくんと過ごした時間を否定することのような気がしたから。

 結論からいうと、そのための知識は得られた。それは一言で言えば、自分の身体に関する知識。どう肉体を動かせば一番心臓に負荷がかからないか、どう足を動かせば身体に負担をかけずにもっとも速く走れるか。つまりは、必要最小限の労力で最大限に力を発揮するための知識だ。
 身体の構造を理解するに伴い、わたしは心臓を始めとする各器官を自分の意思で自由に動かせるようにもなった。自分に向けられた他者の気配や視線といったものに敏感になったのも、これが理由。
 試してはいないけれど、怪我をしたときには新陳代謝を高めてあっという間に治してしまう、なんてこともできるはずだ。もっとも、これはやるとお腹が空いたり、果ては寿命を縮めることにまでなってしまうだろう。だって、この方法での回復とはつまり、肉体の時間を経過させる――肉体をより早く『老い』へと向かわせるということなのだから。

 それはそれとして、そうした知識を得た次には、この世界に関する知識を望んだ。主に言語とかこの世界の常識とかを。その知識のおかげで、わたしはこの世界の人間であるかのように振舞えているのだよ。

 そういえば、と手に取るダガーを決めて、思った。
 向こうは気づかなかったようだけど、『あの場所』にはミツくんがいた。中世ヨーロッパにいる人間のような――あるいはRPGによく出てくる勇者のような格好をした、いまから九年前の――十七歳のミツくんが。そしてその隣には確か、いまうしろにいる金髪ポニーテールの少女のいまとまったく変わらない姿があったような……。
 そしてミツくんはあのとき、


「この力は俺ひとりのためだけに使っていいものじゃないんだと思う。これは皆を護るための力――『王の力』だから」


 とか言っていたような……?
 まさかとは思うけどミツくん、このメモリア王国の王様になってたりして……。いや、いくらなんでもそれはないか。
 けどミツくん、いまのわたしを見たらきっと驚くだろうな。いや、悲しむのかな。だって……、

 うしろの三人が動いた。どうやら小剣を購入するためにカウンターへと向かうようだ。
 少しして「あ、すみませ〜ん。これ欲しいんですが〜」という少年の声が聞こえてくる。――いまだ!

 これにしようと決めておいたダガーを鞘と一緒につかむ。そしてお店の人が三人の客と話しているのを――こちらにまったく注意を払っていないのを確認してから、そのダガーを持ったまま早足で武器屋を出た。

 店から追ってくる人はいない。振り返らなくても気配でそれがわかった。つまりは、成功。これを雑貨屋あたりで売ればそこそこのお金になるだろう。幸い、この街は大きく、雑貨屋がいくつもあった。昨日まで食べ物を盗んでいたいくつかの雑貨屋には行けないけど、まだ顔を出したことのない雑貨屋でならこれを売ることができるはず。
 それに今回はものが武器。盗みやすいようにと小剣でも長剣でもなく、コンパクトなサイズのダガーを――それも刀身が発光していない、魔力の付与がされていないものを――選ばざるをえなかったとはいえ、それでもそこそこ高くは売れるだろう。少なくとも、数日まともな食事ができるくらいの値段はつくはず。

 でも、ミツくんがこんなことをしているわたしを見たら、やっぱり悲しむだろうな……。
 わたしだって元々はこういう――生きるためなら盗みをしたって別にいい、という考えをする人間じゃなかった。けれど、この現状のせいなのか、それとも『あの場所』で知識を得たからなのか、わたしはどこか、以前とは少し違う『わたし』になっていた。少しだけ、性格が変わっていた。

 といっても、活発なのはわたしの本来の性格だ。身体が弱かったから周囲には活発な人間に思われていなかったけれど、いつだってわたしは活発でありたいと思っていた。心だけではなく、身体も心に連動する健康なものが欲しいと強く願っていた。
 それが叶って、いまは元気な身体になれたようなものなのだけれど、『あの場所』で多くの知識を得たせいなのか、どこか達観したような思考をすることが多くなっていた。なんというか、あの頃のような無邪気さを失ってしまった気がするのだ。

「――その服、お気に召されましたか?」

 自分の思考に没頭していたわたしを、女性の声が現実に引き戻した。

「お久しぶりです。四日ぶり、でしょうか」

 目をやると、そこには黒いマントにフードを被った、二十代前半くらいにみえる小柄な女性の姿。
 五日前、わたしがこの物質界――この街に引っ張られてきたときに一番最初に出会った『彼女』だった。

 わたしは『彼女』の最初の問いを無視し、質問で返す。

「わたしになんの用? レヴィア」

 とだけ――。
 




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