○技術室のジェイソン
「ねぇ、真治(しんじ)くん。やっぱりやめておこうよ……」
どこか怯えている表情で少女が口を開いた。
「大丈夫だって。ほら、早く」
表情に比例して歩くスピードも遅くなりがちな少女を、真治と呼ばれた少年が気軽な調子で促す。
「うぅ……」
少女の名は近藤美奈(こんどう みな)。地元では(ある意味で)かなり有名なマンモス学校の中等部に通う二年生である。真治――上杉真治(うえすぎ しんじ)は彼女のクラスメイトであると同時に幼なじみ。つい最近まで重い病で学校を休んでばかりいた美奈の唯一の友人でもある。
そんな彼に美奈は今日、『ちょっと遊びに行かないか?』と端的に誘われた。行く場所も時間も告げずに、だ。まあ、嬉しさのあまり、詳しいことを訊きもせずにOKしてしまった自分も悪いのだが。
そう、友達と一緒に遊びに出かけるというのは、彼女にとっては文字通り『夢にまで見ていたこと』だったので、それ自体は嬉しい。家を出る時間が午後七時であること、出かける相手が、幼なじみであるとはいっても同い年の男の子であることは、第三者から見れば少々問題かもしれないが、それも彼女は気にしなかった。
仕事の都合上、父の帰りは早くても午後十時以降になるし、父子家庭でもあるしで『こんな遅くに出かけるなんていけません。それも男の子となんて』みたいなことを言う人間だっていない。家庭教師兼病気が完治するまでは美奈の世話役でもあった綾崎響子(あやさき きょうこ)という女性は、現在も以前と変わらずに美奈が家で独りにならないようにしてくれているが、彼女はむしろ嬉々として送り出してくれた。……美奈にはそのとき、確かに彼女の瞳が珍しくニヤニヤと笑っているように見えたのだが、あれは果たして、自分の気のせいだったのだろうか?
ともあれ、そんなわけで美奈が午後七時に外出するのは決して難しいことではなかった。というか、障害なんてなにひとつなかった。真治のほうは父親のゲンコツを覚悟して出てきたらしいが。
しかし、行く場所を真治から聞かされた途端、美奈の顔は蒼ざめた。
「ねぇ、やっぱり行くの? やめておこうよ……」
もう何度目になるかわからないセリフを美奈は口にする。
真治が告げた目的地は、自分たちが通っているところとはまた別の高等学校。それも頭には『夜の』がつく。
彼が言うには、そこの技術室にジェイソンが出るのだという。教えられたのはそれだけで、詳細は一切不明だが、それで気楽になれるはずもない。病気のせいで身体は弱いほうなのだ。もしジェイソンと出くわした瞬間、ショック死でもしたらどうしてくれるのか。
もちろん、美奈だって本当にジェイソンが出るなんて思っていない。だから『行きたくない』という言葉も呑み込んだのだ。それに今日は十三日ではあるけど木曜日だし。けれど、やっぱり不安はつきまとった。
しかし真治はそれを気にも留めず、先に立って歩いていく。そして変わらず、気楽げに返してきた。
「大丈夫だって。だって、ウワサの通りだったらジェイソンは――おっと」
思わず口を滑らせそうになったのだろう、少年は慌てて右手で口を押さえてみせる。
「とにかく、絶対に大丈夫!」
そんなやり取りをしながら歩いているうちに。
二人はいつの間にか目的地に到着していた。
「暗いね……」
「そうだな。なんか雰囲気出てるよな〜」
心細げな少女の声と、どこか楽しげでさえある少年の声が廊下に反響する。
もうすぐ寿命を終えるというのだろうか。頭上にある蛍光灯がときどき小さく明滅し、美奈の不安を助長させた。
さすがに、ここまで来て『やめよう』とか『帰ろう』なんて言おうとは思わない。さっさと技術室に行って、なにもないことを確かめてしまいたかった。
「――お。ここ、ここ」
やがて、二人は技術室の前までたどり着く。
「……っ! 美奈!」
「なっ、なに!?」
いきなりかけられた大声に、美奈がビクリと身を縮こまらせた。真剣な表情のまま、真治は大声で続ける。
「どうしよう! 扉に鍵がかかってる!」
「…………」
へなへなと廊下にへたれこみそうになる美奈。なぜこの少年はそんなことをそんな切迫した表情で言うのだろう。
しかし、よくよく考えてみれば当然のことだった。いまは午後七時過ぎ。美奈たちの通っている学園だったらわからないところだが、普通の学校なら部活動などもすべてとっくに終了している時刻だろう。
「じゃあ、もう帰ろ――」
「あ、でもこっちの扉は開いてる」
技術室には扉が二つ存在していた。大きめの専門的な教室にはよくある造りである。しかし、なんでこっちの扉の鍵はかけ忘れるかな、と美奈はちょっとだけ施錠を担当した人間を恨んだ。
「さ、入るぞー」
「…………。うん」
言い出したら美奈の意見なんて聞かないのが真治という少年だ。本人に言わせてみれば『好奇心が強くて勇敢』らしい。そんな彼が身体の弱い美奈には眩しく、ときには頼もしく映るときもあるけれど、いまみたいな状況では正直、少しだけ迷惑だった。
そして。
二人は出会う。
その怪物と。
『技術室のジェイソン』と――。
技術室の中は暗闇に満たされていた。月明かりも届かない室内。
教師に見つからないよう、電気を点けずに二人は進んでいく。バクバクとうるさいほどに鳴る美奈の心臓。闇は自分を呑み込み、暗黒の世界へと誘わんとする悪魔の吐息のよう。
そんな考えが美奈の脳裏をよぎったときだった。
「……っ!」
チュイーン、と。
機械的な音がした。それはたとえるなら、歯医者で聞く恐ろしいあの音に似ているだろうか。
「おっ、出たな」
「出たな、って……」
いまの音はきっと、ジェイソンの持つチェーンソーの音だ。
真治はそれを聞いて余裕の表情を浮かべる。それが美奈には信じられなかった。自分なんて恐怖のあまり声を出すことすら満足にできなかったのに。
足が、自分の意思に反して後ずさりを始めた。それで正しいと思う。どうして真治は逃げ出そうとしないのか。
そんなことを考えながら、彼女は少年の視線の先に在るものを確かめようと目を凝らした。そうしなければ怖くて卒倒するか気が狂ってしまいそうだ。
そこには――居た。
チェーンソーを構えた、荒々しい表情を浮かべた、大男が。
「――っ……!」
彼が本当にジェイソンなのか、などということはどうでもよかった。重要なのは、大男がチェーンソーを持っていて、いまにも真治に飛びかかろうとしているという事実。
「逃げるぞ、美奈っ!」
ようやく危機感を覚えたのだろう。真治がジェイソンに背を向け、美奈の手をとって扉へと走り出した。足を少しもつれさせながら、それでも必死に少年の手を握り、美奈も走る。
背後から襲いかかってくる、獣じみた咆哮。それに美奈は涙目になった。心臓は破裂しそうなほどドクンドクンと鳴っている。横腹が痛くなり、どうしてここに来てしまったのだろうという後悔が頭をかすめた。軽いパニックにも陥る。
だから、美奈は気づかなかった。
後ろからジェイソンが追いかけてきていない、という事実に。
それから数分後。
二人は無事、高校の敷地から脱出することに成功していた――。
『技術室に引きこもるジェイソン』。
とある高校の技術室にいるジェイソンは、自分の持っているチェーンソーが充電式ではないため、常に技術室のコンセントから離れることができない。また、テリトリーである技術室にさえ侵入されなければ誰かを襲うこともない。
ちなみに、人を追いかけようとするジェイソンの姿は、繋がれた犬に似ている。
「なにそれ……」
家路につきながら、美奈は真治から『技術室のジェイソン』の全容を教えられていた。その話が事実ならば、彼が余裕の表情でいられたのも道理だ。
「だったら、そう言ってくれても……」
「だって、前もって種明かししちゃったら詰まらないじゃん」
「こういうのは、面白いとか詰まらないとか、そういう問題じゃないと思うの……」
「ははっ、悪い悪い。でもオカルト研究部としては、こういうウワサ話って確かめずにはいられなくてさ〜」
だったら自分を巻き込まないでくれ、と一瞬だけ思ったが、自分が除け者にされていたら、それはそれで寂しく感じていたことだろう。身体が弱いから気を遣われた、とかそんな風に考えて。
だから、これはこれでよかったのだろう。
そう結論づけ、美奈はまだ繋ぎっぱなしだった彼の手を、もう一度ぎゅっと握った。